2010年

9月

02日

コラムVol.9 大月啓介(映像ディレクター/ライター)

「島の人たちのことが大好きになっちゃって!」  
何度か耳にしましたが、そのような理由で、
はなぶさ監督はこの映画の制作に飛び込んだとのこと。
そう言えば監督、屈託なくこうも言ってました。
「この映画は島の人たちへの恋文です」と。
 
その言葉を聞く前に「祝の島」に触れたことは、
僕にとって幸運でした。そうでなければ、
この映画を観ることはなかったかもしれません。
古今東西、「恋は盲目」と言いますが、
「大好きです」で始まり、「大好きです」のままに
終わってしまう作品だとうっかり思ったでしょうから。

実際には、初めて「祝の島」の抜き出し映像を観た時、
思いがけず僕は釘付けになりました。
島の暮らしの風景、じい様たちが語る映像でした。
映画公開前の座談会でのことです。

「よそ者が、島の人たちのフトコロに、
よくぞここまで入り込んだなあ…」
取材者としての驚きもありましたが、それより何より、
「よくぞこの言葉を引き出し、こちらに届けてくれた」
という歓びがありました。

それは島での人生、島の記憶から導き出された、
耳を傾けずにはいられない「語り」でした。
どのように、あの深い語りを引き出したんだろうか。
この監督が映画で描くのはどんな世界だろうか。
がぜん本編が観たくなりました。

自分の「祝島が大好き」という想いに忠実に、
それをひたすら掘り進める作業。
周囲からは、客観性に欠ける、独りよがりになる、
と言われたことも少なくなかったことでしょう。
なにせ、原発という繊細な問題を抱える地ですから。
 
でも、恋する女の土性骨は侮れんですね。
周囲の「助言」をものともせず頑固一徹。
自分の想いに従いつつ、そして「監督」として、
祝島と私たちとの間に水路を通すという、
とても地道で困難な作業をやり遂げたのでした。

後に試写会で念願の本編を観ると、その水路を通して、
監督個人の「好き」をはるかに超えるものが、
祝島から流れ込んできました。

美しい島の風景、人間の強さ可笑しさ、
対立に割れる人々の切なさ…とともに、
淡々と映し出される、あたりまえの日常。
監督が作ったのは、「原発にゆれる島を伝える」
という構えであったなら通されないであろう、
「取るに足らぬ小さなもの」も流れてくる、
とても大らかな構えの水路でした。

日常から切り取られた「今ここにある」
小さなシーンの連なりは、不思議なことに、
「今、ここにはないもの」を強く想わせました。
こんな風に、この島ではいのちと暮らしが、
人と人とが連なってきたんだろうなあ、と。
まさに「1000年先にいのちはつづく」がごとく。

もちろん、祝島は暮らしの場であると同時に、
原発をめぐる対立の場でもあります。
そしてそれは、人と人の連なりを断とうとし、
暮らしのあり方も大きく変えようとしています。

けれどこの映画は、私たちのなじみの言葉、
対立軸を明らかにし、解決策を示す言葉、
正当化し、批判するための言葉を声高に語りません。

そのかわりに静かに見せ、問いかけてきます。
それらの言葉ではすくいとれない、
耳を傾け、目を向け、受け止めるべき、
もっと別の「ことば」もあるかもよ、と。

その「ことば」を無視するときに、
私たちは遠い場所の痛みに、悲しいほどに
無感覚でもいられるのかもしれません。
「知らないよ」「仕方ないよ」と。
でも、あっちとこっちが、何かの拍子に、
否応なしに通じることが、時にはあります。

はなぶさ監督が通したのは、そのための水路です。
そしてそれは、とても個人的な感情、
「祝島が大好き」という想いをよりどころに、
せっせと掘り進められたものなのです。
ひょっとしたら、そのことも、
この映画のメッセージやもしれないな、と思います。

      大月啓介(映像ディレクター/ライター)

 

 

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国内外で主に中東・パレスチナ、在日外国人をテーマに取材。
つつがある日々: http://sawa.exblog.jp
webでのショートドキュメンタリ・シリーズ “Mossmedia”
10月に開始予定。

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