コラムVol.8 山秋真(ライター)

 

 纐纈監督にはじめてあったのは095月末。

このとき監督は2つの問いをわたしに投げた。

そのひとつが「あなたは(原発)推進派も取材したか?」。

中国電力の原発予定地・上関町の祝島で撮影をすすめていた監督自身、

「推進派と反対派を平等に撮らないと薄っぺらな作品になる」

といわれていたこと、

そして、わたしが関西電力の原発予定地だった石川県珠洲市へかよい、

『ためされた地方自治』という本を書いたことが背景にあった。

この問いには論点がいくつかあり、だから幾通りかの答え方ができる。

そもそも「推進派/反対派」というとらえ方からして薄っぺらだ。

ただどういうわけか、この時わたしは反射的におよそ次のように答えていた――「『推進派』も取材しようとはしなかった。無限ではない人生の貴重な時間なのだから、自分が魅力を感じ、話を聞きたいと思う人に会うためにつかった。ただ、『反対派』と呼ばれた人たちでも、年月の経過とともに諸事情から仲間のもとへ 顔を出さなくなった人もいて、そういう人の姿は描いた」。

近しい匂いを互いに感じたのか、これをきっかけに纐纈さんとの交流が始まり、

秋からの『祝の島』連続座談会で司会をさせていただくことになった。

 

初回の日、『祝の島』のラッシュ映像をはじめて目にした。

目のまえに映しだされたのは、日本の地方のどこにでもありそうな日常風景。

けれど原発計画の現場でそれを撮ることは、容易なことではないはずだ。

原発は、建設費が一基5000億円という巨大開発であり、

国民的合意があるとはいいがたい(科学)技術でもある。

それをめぐり、現地にはたくさんの人がやってくる。

目的は懐柔・分断・応援などさまざま。

そのくせ誰もがウツクシイコトを語る。

そこで四半世紀以上も自覚的に生きていれば、

人間をみる力は鍛えぬかれるだろう。

人あたりよい人であっても、厳しい眼差しも併せもつと思って間違いない。

なぜなら、それなしに国策である原発に

長年あらがいつづけることは、ほぼ不可能だから。

その地でこの映像を撮ってきた。

「祝島の人は自分の証人としてこの人を選んだのだな」わたしはそう感じた。

 

4回の座談会のテーマは「地域を映し撮る」

「海のある暮らし」「地域で最期を迎える」

そして「原発が地域にもたらすもの」。

準備のため資料をよみ、情報や意見や交換し、勉強会を重ねた。

それぞれ自分の現地へかよい表現を模索するバラバラ状態から、

問題意識も匂いも近い人がいると知り、つながろうとしたのかもしれない。

ふりかえるとあれは、現地の人びとのうしろ姿から学んだ極意を、

自分なりに実践する試みだったともいえる。

燃えつき症候群にやすやすと陥るワナを避け、

あらがいつづけて生きる「極意」の実践。

つながりで支えあおうとしたのは、活動継続の面にとどまらない。

コンテンツについてもいえる。

例えば、現地の人が生きている現実を纐纈監督が鋭い感性でうけとめても、

すでに手垢にまみれた言葉をつかってそれを表現するなら輝きは鈍る。

それはわたしもかかえる悩みで、

いまも「つながり」という言葉をつかいながら

この言葉でいいかと迷い、エイヤッとつかっている。

つながったからといって容易に乗りこえ可能となるはずもない。

だが、危ういと感じる言葉や腑におちない議論について疑問を投げかけあい、

問題意識を共有し、問いをあたためることはできる。

答えはすぐには出ないし、ひとつとも限らない。

 

426日の『祝の島』完成お披露目上映会では、

わたしまでドキドキハラハラしていた。

「祝島を知らない人にも伝わるだろうか」と思うと、

「もう一工夫したらもっと伝わりそうなのにもったいない」と思う場面も、

ないわけではなかった。

もっとも、ほとんど映画のパンフレットで補うことができる

性質のものだと思ったので、信頼することにした。

一点だけ、パンフレットでは解決できなさそうな個所があった。

これについては監督に私見を伝えるべきか半日迷い、結局やめた。

無から何かをつくりだすという行為は、

口だけ出すことの十倍も百倍も気力・労力を要する。

「もったいない」かもしれないが致命傷ではなし。

祝島と出会い、惹かれ、かよいはじめた監督が、

かの地の原発立地の現実を知ってそれとも向きあい、

祝島の人の声を社会的に存在せしめる媒体となって、

現実の諸条件とも格闘しつつ映画を完成させた。

この期に及んでは、それらを担いきったことへの敬意をこそ表したかったからだ。

ところが619日の一般公開を経てあらためて『祝の島』をみると、

懸案の個所が見事に修正されていた。

監督によれば「完成お披露目上映後は基本的に変更なし」。

ただ、わたしにとってラストピースだったその一点だけ、

例外的に映像をさしかえたという。

「パンフレットで補えるから大丈夫だろう」と監督を信頼した点についても、

すべて実際に補われていたことは言うまでもない。

不思議といえば不思議な気もしたが、当然の結果かもしれないとも思う。

他でもない祝島の人が選んだ証人なのだから。

 

こうして生まれた『祝の島』は「感じる」映画だと思う。

平さんの小屋の暗がりを照らす、

外にあふれる夏の陽ざしやランプのともし火。

エンディングに流れる島の暮らしの音、丹念に丁寧に仕上げられた細部が、

わたしの眠れる感覚を呼びさます。

瀬戸内海の最後の聖域と呼ばれる海にうかぶ、祝島の暮らしの春夏秋冬。

原発計画にゆれながら生きる人びとの喜怒哀楽と、その瞳がむかう先。

映画を観ながら、わたしはそれらを「知る」のではなく「感じ」ていく――

いつしか祝島の時間の流れまでも。

「島の時間の流れを大切にするため、

映画本編ではできるだけ説明を削ぎおとした」と監督は語っていた。

その甲斐ありというべきだろう。

この映画は、原子力問題への回路を

理屈やイデオロギーから解き放とうとしているようにみえる。

ならば、控え目で静かなこの映画が、

実は根っこのところで野心に満ち戦闘志向なのだとも言えまいか。

なぜなら、理屈から感情に転化したところが人を動かすのだから。


                      山秋真(ライター)

 

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*最近の活動  

『ためされた地方自治:原発の代理戦争にゆれた能登半島・

 珠洲市民の13 年』(2007)で 平和協同ジャーナリスト基金賞(2007)、

 松井やよりジャーナリスト賞(2008)。

 現在は、原発立地にゆれる地域で子ども時代をすごした人に

 インタビュー継続中。  

 

ブログ:湘南ゆるガシ日和 http://blog.goo.ne.jp/s-y_082209/

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コメント: 1 (ディスカッションは終了しました。)
  • #1

    渡辺 基 (水曜日, 11 4月 2012 06:17)

    金沢のボランティア組織、僧侶らが主催するフィルム上映会にて首記作品を拝見。五臓六腑に響きわたるFilm、でした。

    当地のかつての被差別地区、その中心に位置する禅寺のお堂=「ふくしまを語ろう」でみることができただけに、余計に―。

    じっくり、溜め腰で。まるで編みものをこしらえるかのように。あっけらかん。

    「日々の暮らし」と「反対運動」をくりひろげるおばちゃんたちの豪快さ、ったら、じつに痛快。

    珠洲の原発問題。無知でした。

    国内屈指級、われらがご先祖縄文びとが4000年も集住。半島先端の聖地にめをつけていたとは。

    エネルギー問題は、あらゆる「要素」はらんでいますね。

    わたしは「敗北をだきしめ」つつ生きるのは、もうごめんです。

    爽快